公文の先生のお便りに素敵な言葉を紹介していました。

 

「言」と「事」は同源だそう、です。

「言」は言葉。

「事」は行為。

 

昔は「言」として表現することで、「事」は実現すると信じていたそうです。

そして「葉」は「端」とする説もありますが、草木の葉にたとえたものだという説があります。

 

心は草木でいえば根っこにあたる部分です。

心の中で思っているだけでは、何も現実にはなりません。

 

草木が芽を出し、葉を茂らせることによって、花を咲かせ

実を結ぶように、人は言の葉によって思いを伝え、

人と繋がり、自分を表現しながら、現実の世界を思うように

変えていくという意味です。

 

言葉の力は無限です。

いいようにも、

悪いようにも、

自分を引っ張っていきます。

それが、言葉です。

 

素敵だなあ惹き付けられる人には

共通点が、あります。

 

言葉の力を知っているんです。

 

その言葉を使うことで自分の心を

上手にコントロールできることを、知っている。

 

その言葉を使うことで相手の心を変えてしまう

ということを、ちゃんと知っている。

 

だから、ふいに出てくるちょっとした一言でも、

違うんです。

もう、まったく、違う。

 

そう、思います。

 

そういう人との会話のやりとりを

重ねていくだけで

自分の脳ミソにはいい言葉の嵐がインプットされていきます。

 

私達の脳ミソの中は、日本語で動いています。

日本語でいろいろことを想像したり、しています。

 

豊かな言の葉をもった国に生まれた恩恵を

存分に使いきらなくては、損!と、思います。

 

それほど、

美しい言葉にあふれていると、思います。

 

話は変わります。

昨夜、大切な人のおばあちゃまが亡くなられ

お通夜に行ってきました。

 

おばあちゃまは、可愛い孫達があんなに号泣して

親しい人たくさんに囲んでもらって

それだけで生前のお人柄が伝わってくるようでした。

 

棺おけの中でもう動かなくなった故人に手を合わせる時

私はいつも、不思議な気持ちに、なります。

きっと今はあのあたりで、おばあちゃまは見ているんだろうな

とか

ホッペをさわったら今にも目を覚まして笑いそう

とか

今日からまったく違う世界に向かっていく人を前に

いろいろなことを想像してしまうのです。

 

いいところに行って下さいね

と、心の中で祈るのは、

いいことろと、悪いところがあると私の中に思い込みがあるのでしょう。

なぜか、こういうシーンでは必ず

いいところにどうか、行ってね

と祈ります。

父が亡くなった出棺の時も

しきりに、そう、口走ってました。

 

お別れは、寂しいものです。

大事に大事にしてくれた人なら、なおのこと。

心の中に生きているよと思いつつ

さみしくてさみしくて

どんな姿でもいいから、そばで息をしてて欲しいと

思ってしまうんです。

 

今生の別れを幾度も繰り返していくんだなあと

歳を重ねるたびにその機会も増え

なんともいえない気持ちに、なります。

 

大人は時間が止まっているように

感じてしまいがちですが

子供はどんどん日に日に大きくなっていきます。

そのぶん、押し上げられ

順繰りにこの世をみんな順番に去っていくわけ、です。

 

自分の死ぬ日を知っているという方が、います。

その方は、◯年の◯月◯日に亡くなるまでの

人生設計図をお持ちです。

 

それが本当かどうかは誰にもわかりませんが

全てのことを設計図通りに進めてこられた方なので

本当にその日が最期の日になりそうな気も、します。

 

今日もいつもと同じように朝が来て

朝ご飯を食べて、子供を送り、出勤し、みんなに会い

患者さんに会い。

 

この当たりまえのことは、永遠には続かない

んですね。

 

刻一刻と、変化し、生まれ、死んでしまい、止まっていることは

ないんだな、とふと思います。

 

おばあちゃまのご冥福を祈ります。

どうか、いいろこころに行って下さい。

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